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BLANKEY JET CITY(ブランキー?ジェット?シティ)は、日本のロックバンド。東京にて1990年2月に結成。略称はBJC、ブランキー。
メンバー
浅井健一(あさい けんいち〈愛称:ベンジー〉、愛知県出身、1964年12月29日 - )ボーカル、ギター
照井利幸(てるい としゆき、愛知県出身、1964年2月28日 - )ベース
中村達也(なかむら たつや、富山県出身、1965年1月4日 - )ドラム
概要
1980年代に名古屋で浅井、照井がスキャッツというバンドで活動していた。 この時点で中村は参加していないが友人ではあった。その後、浅井が上京。先に上京していた中村と活動をともにする。しばらくして、当時中村が所属していたバンドのツアーに同行していた浅井と照井が再会。それがきっかけで照井も上京する。
1990年2月に浅井、照井がバンドとして活動を開始する際に、改めて中村が加わり「THE BLANKEY JET CITY」を結成。(当初他のドラマーがいたとも言われている) 「ブランキー?ジェット?シティ」というバンド名はボーカルの浅井健一曰く、「不良たちが集まる架空の都市」、「ブランキー市長の都市(ジェットシティ)」ということであるらしい。
1990年8月4日、「イカ天」に出演。これが彼らのテレビ初出演となった。1週目に「CAT WAS DEAD」を演奏し、COLLAGEを下し、25代目イカ天キングとなった。この時浅井は、自ら「ボブ?ディラン」に似ていると公言し、審査員の笑いを誘った。2週目には、「MOTHER」を演奏。この週も7-0というスコアで圧勝し、イカ天キングを維持した。インタビューの際に「チャレンジャーの色気に対抗する君達の持ち味は?」と聞かれたのに対し、浅井は「正義」と答え、またもや審査員の笑いを誘っていた。そして3週目は、「不良少年のうた」を演奏し、ウェザーコックスに圧勝。4週目は、「僕の心を取り戻すために」を演奏。浅井は、風邪を引いていて喉がガラガラだったが、圧勝。そして最後の5週目「狂った朝日」を演奏し、見事5週連続勝ち抜きを果たし、第6代グランドイカ天キングを獲得した。 これがデビューのきっかけとなる。
デビュー前に山本耀司のパリコレのモデルやウォークマンのCM出演など、新人としては異例の扱いを受ける。そして1991年4月、ロンドンでレコーディングされたデビューアルバム「Red Guitar And The Truth」を東芝EMIからリリース。このアルバムはオリコン初登場8位と好セールスを記録したが、製作する中で担当プロデューサーJEREMY GREENとの音楽的な不釣合いがあり、本人たちにとっては不満の残る仕上がりとなった。
デビューアルバム後からプロデューサーとして迎えた土屋昌巳との共作を始める。1992年の1月、2ndアルバム「Bang!」をリリース。デビューアルバムから引き続き大きな注目を集め、オリコン初登場7位を記録する。 同年2月にミュージックステーション初出演を果たし、「とにかく全ての人たちに自分達の曲を聴いて欲しい」というメッセージと共に「冬のセーター」を演奏した。ちなみに浅井はタモリと一言も会話を交わさなかった。 続いて9月に、ライヴアルバム「Live!!!」をリリース。これに収録されたライヴの中で、初めてアンコールにて名曲「Baby Baby」を披露する。
1993年2月、3rdアルバム「C.B.Jim」をリリース。12月にミニ?アルバム「Metal Moon」、そして1994年5月に4th「幸せの鐘が鳴り響き、僕はただ悲しいふりをする」と立て続けにリリースを重ねる。これは彼らの所属していた東芝EMIが、バンドを更に有名にするべく過密なレコーディングを強いていたからであると言われている。この頃にバンド名から「THE」が抜け、「BLANKEY JET CITY」と名乗るようになる。
1995年3月に初のベストアルバム「The Six」をリリース。これにはデビューアルバム「Red Guitar And The Truth」から新録された4曲(唯一、「不良少年のうた」は「Rude Boy」という曲名に変わっている)、更に「悪いひとたち」の完全バージョンが収録されている。6月にイングランドにて初の海外ライヴを行った。8月に代々木公園野外ステージにて「Are You Happy?」と題されたフリーライヴを敢行。13000人もの動員を記録した。11月に5thアルバム「Skunk」をリリース。 このアルバムを最後に、土屋昌巳のプロデュースから離れることとなる。
1996年はメンバーそれぞれがソロプロジェクトを始動させる。 浅井は「SHERBET(後にSHERBETSとなる)」、照井は「Joe Brown」、中村は「LOVE SHOP LOSALIOS(後にLOSALIOSとなる)」として活動。ソロ活動が落ち着いた後、1997年にヒットシングル「ガソリンの揺れかた」を収録した、初のセルフプロデュースとなる6thアルバム「Love Flash Fever」をポリドールよりリリースする。1998年は1月に東芝EMIに在籍していた時代の曲を集めたベストアルバム「国境線上の蟻~The Very Best of Blankey Jet City~」を、同年6月に7thアルバム「ロメオの心臓」をリリース。このアルバムは発売から1週間で30万枚以上のセールスを記録する。
1999年にメンバーは再びソロ?ワークにシフトする。その後2000年5月10日に8thアルバム「Harlem Jets」を完成させる。発売前の新聞広告上において「最高のアルバムが出来たので俺達は解散します」と、突然の解散宣言をする。アルバムは自己最高となるオリコン初登場2位を記録。
7月5日にラストシングル 「Saturday Night」をリリース、そして7月8?9日に横浜アリーナにてバンドのラストライヴ「Last Dance」を敢行。しかし、同年のフジ?ロック?フェスティバルのグリーンステージにてメインアクトを務めたため、実質これが真のラストライヴとなった。その後、同年9月にラストライヴの模様を収録したCD、VHS、DVD(いずれも題名は「Last Dance」)を、そして10月にはバンドの全曲から選出され、前期と後期に分けてそれぞれ収録したベスト盤「Blankey Jet City 1991-1995」、「Blankey Jet City 1997-2000」をリリースした。
2008年、過去のアルバム作品をSHM-CD&紙ジャケット使用による再発。未発表曲?未音源化楽曲をまとめたアルバムのリリースが発表された。
HMVによるTop 100 Japanese pops ArtistsのNo.73に選ばれている。[1]
[アーティスト名] BLANKEY JET CITY
[タイトル] RARE TRACKS
[CD番号] UPCH-9455
[発売日] 2009-01-21
1 ロメオ(London Session on 17 May 1997)
2 EXCUSE ME
3 リス(VERSION 2)
4 シェリル
5 COME ON(VERSION 2)
6 バナナのとりあい
7 嫌われ者
8 ロンドン
9 SEA SIDE JET CITY(VIRGIN TAKE)
10 コスモス
11 fifteen
http://down.mediajp.com/musiclists.php?mode=final&id=110110001111000011